京都,像是現代的古詩,帶點禪風。
到了嵐山,倒是遇到角倉了以的詩,刻在石頭上,不過卻沒心思一一拜讀。還有周恩來紀念詩碑《雨中嵐山》,只是那塊地盤被一些陸客佔據,他們樹下高談闊論,我們就只好快閃。
回來多日,又開始讀魯拜詩,怎麼覺得對我揮手的是古京都,而不是老波斯?
角倉了以的詩,刻在石頭上
角倉了以雕像
周恩來紀念詩碑《雨中嵐山》
讀到----人間的萬象真理,愈求愈模糊 ---還真有點感慨。
回來多日,又開始讀魯拜詩,怎麼覺得對我揮手的是古京都,而不是老波斯?
角倉了以雕像
角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国期の京都の豪商。
朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また幕命により富士川、天竜川等の開削を行った。地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。
長男に角倉素庵、弟に吉田宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。
周恩來紀念詩碑《雨中嵐山》
雨中二次遊嵐山——模糊中偶然見著一點光明 真愈覺嬌妍 敬書周恩來總理一九一九年四月五日作於日本京都嵐山詩一首廖承志一九七八年十一月
兩岸蒼松
夾著幾株櫻
到盡處
突見一山高
流出泉水綠如許
繞石照人
瀟瀟雨
霧濛濃
一線陽光穿雲出
愈見嬌妍
人間的萬象真理
愈求愈模糊
該碑背面刻有如下日文:
一九七八年十月,日中平和友好條約締結を記念し。京都人の子子孫孫まての友好の心を現す為ゆかりの深い此の地に偉大なる実力者周恩來總理の詩碑を建立する。一九七九年四月吉日。
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